クスコから
マチャピチュ

世界遺産:空中都市
マチュピチュ

世界遺産:空中都市
マチュピチュ

世界遺産:日時計

グッバイボーイ
(チャスキーボーイ)
今は勉強が大事と学校に
行かせています。

雑木の掛け橋

魔除けの面

アメリカ旅行中、画家に
描いて貰った。 |
次の日はインカ帝国遺跡のハイライトであるマチュピチュに向けてのクスコ駅よりの旅立ちであるが、一人が高熱で4人が頭痛と下痢がひどい状態である。二度と来れないかもしれない旅なので気力を込め部屋を出た。パンをひとくちだけ食べるのがやっとでバスに乗った。バスは特別の入口より入った。1905年開通した高原列車(ブルートレイン)は6時18分に出発し、クスコ市街の家並みを抜けスイッチバック方式で登り始めた。クスコは盆地なので3800m位迄登る。至る所で民族衣装を着た女性や日なたぼっこする男性が手を振ってくれる。列車は専用列車なので区分されておりお客ごとに車掌がいる。
7時10分にポロイ駅に着いた。ワゴンでの販売はインカコーラ、ビール、パン、チョコ、菓子などがあり、次の車両に渡れないので片づけて次の車両に行く。それを4時間の間繰り返していた。オヤンタイタンボ駅に着く頃、トイレに行くと行列ができており堪えきれない。前に並んだスペイン人女性2名が同時にはいったが、なかなか出て来ない。駅に着く頃ようやく出てきたので、前の女性にお願いして先に使用させてもらい中に入った。急いでズボンをおろして便器に座ったら機関銃のように打ち出したのでほっとした気持ちで何気なく流してしまった。列車は駅に停車しており、垂れ流してしまったので駅員が車体をドンドン叩てスペイン語で怒っていたが、出たものはしょうがなく開き直って次をがんばった。昔の国鉄が停車時には使用しないで下さいと張り紙が張ってあったように、落ち着いて見ると目の前に張ってあった。
9時にウルバンバ駅に着く、ウルバンバ川はアマゾン川の上流になる。10時28分に到着し4時間10分かかった。駅より露店が続き、カラフルな雨合羽が1ドルで売られている。乗合いバスの発着場に行く間は露店が並ぶ。轟々と流れる川を渡りバスに乗り30分かけて400m登った頃に土砂降りとなった。クスコは3800mあるがここは2800mであるのに空中都市と呼ばれる。登山道口に杖が置いてあり自由に借りられるらしく、登って行くと突然視界が広がる。そこはインカの謎の都市であるマチュピチュ遺跡である。段々畑の塀は全て石。遺跡の周囲は、高さ5m、厚さ1.8mの城壁で固められた要塞の「空中都市」。総面積5kuで半分は斜面。聖職者の水くみ場があり、サイフォンの原理で水を引き込む方法を知っていたと言われ、石に溝を刻んだ地下用水路を造っている。歴史遺産も同じであるが、目と耳と肌と鼻と口と他にもうひとつの見方や感じ方があり見はるかす夢を巡らすことが大切である。マチュピチュは時が止まっていたが、周りのアンデスの高原は時がゆっくり流れているようでした。空間を最大限に利用したインカの民には驚かされるが、崖より川に落ちた人も多かったと思う。下を見下ろすと地底をえぐるような川音と山頂より吹き下ろし山間を走り抜けるさわやかな風の音。ペルーを流れる27本の川がアマゾン川にそそいでいる。晴れたときには紫外線が強いので1〜2時間で皮が剥けてしまうらしい。背後にある切り立った山は霊峰ワイナピチュで、マチュピチュが「老いたる峰」ならワイナピチュは「若い峰」です。こんな山頂に都市を造る必要があったのだろうか。文字や鉄器ももたず石器の時代のままの文明が高度な文明を残したのだろうか。段々畑から市街地に抜ける門をくぐった頃、又雨が強くなったので、ただ単に足元の石段を見つめ歩いているだけだった。
3000年前チャビン文化が生まれ、その後モチーカ、ナスカ、チムといった文化が栄え、12世紀初頭頃には、首都クスコを中心に5000kmにわたるインカ大帝国を形成。1523年スペイン人に滅ぼされて1821年に独立した。インカ帝国の遺跡のハイライトであるマチュピチュ(老いたる峰/空中都市)は、1911年に発見され多くの謎を秘めており、山の斜面に王宮、神殿、灌漑用水路まで精微な石造技術で造られています。なぜこのような山頂に高度な石造建築の街を造ったのか、いまだに多くの謎を秘めた遺跡です。
2日間何も喉を通らない高山病で最悪の時、長崎より片道2万キロの旅は、「八甲田山の雪の行軍」のごとく過去の辛さで今を乗り越えられるかのように、何故か辛く苦しい過去に再び記憶が戻ってしまう。東京に出て商社に勤めながら音楽事務所に籍を置き夢見ていた頃、事務所より依頼される詩に曲を付ける日々、それと商社の仕事との両面で悩み悩んで2度にわたり三井記念病院に救急車で運ばれ、担当医より「次は保障できません」と言われ急遽空輸され島原温泉病院に即入院して1年間療養する事になってしまった24歳の頃が蘇ってくる。後は余分な人生と思うに十分な時間をかける必要があった。復帰に向けて有家町役場にお世話になっていた頃、叔父が島原高校の校長等を歴任して島原中央高校の校長をしていた時期で、教員に来いと強く言われたが、再度受けてクラリオンガールの烏丸せつ子さんのお世話などに当たることに成ったことが脳裏をかすめた。
一度下山すると高山病は治るとのことで頭痛はなくなってきたようだ。藁葺き屋根だったので今は残っていない住居跡。遺跡から覗くとそこは地底をえぐるような川音と山頂より振り下ろし走り抜けるさわやかな風の音。曇っているが紫外線が強い。少しの日差しで真っ黒になる。こんな山頂に都市を造る必要があったのだろうか。インカの遺跡を巡りながら体に鋭気が戻ってきたように感じられた。出口にある高級ホテル「サンクチュアリ・ロッジ」のレストランがあり昼食はそこですることに成った。入口をはいるとコンドルバス(コンドルは飛んでゆく)で迎えてくれた。バイキングで種類が多く、ここで食べないとお店はないので大変な混み合いである。ここでようやく食欲がでてきた。
乗り合いバスに乗るが、満員に成るまで出発しないとのことであり、だいぶん待たされてしまった。バスは、つづら折りの道を下って行くと、子供が道路のわきで「グッバイ・グッバイ」と手を振ってくれていたので、みんなも現地の子供と思い答えていた。しばらく下ると又同じ子供が立っていて「グッバイ・グッバイ」と手を振っている。それが繰り返されると乗客の女性が持っているお菓子をあげたくて「ストップ」と叫んだところ、あちこちで声が上がったが、運転手は無視して下って行く。5〜6回繰り返された頃、バスは止まった。子供が乗ってきて各国の言葉で「さようなら」を言ってチップを集めて回り空席に座った。降りるときに子供を見ると両手にいっぱいの飴やお菓子を握っていた。子供はそのままバスに乗って登って行く。最初はバスと競争して勝ち誇っていたことが商売に成ったようだ。飛脚の衣装を着て走るのでチャスキボーイと呼ばれる。
駅まで露店が並んでおり、線路沿いには列車が通れそうもないほど商品を並べている。川は泥流と成っているが上流では石を切っている。薄暗い露店を覗くと針刺しを勧められた。1人が1ソル、2人が2ソル、3人が5ソルというが、単純に3人なので3ソルではないか。人形でもお腹に針を刺すように成っているので買うのをやめた。薄暗い奥の老婆の足元に丸っこい石が5個転がっているので興味をそそり、指さすと取って見せてくれた。2個に穴が丸く開いているだけで普通の石のようなので穴が開いている方は何かと聞いたら、老婆の早口の現地語が長々と続き意味不明のなかに「インカストーン」だけが判ったので静かにわけてもらった。何故なら昨日、黄金博物館で戦いの時、石に棒(棍棒頭)を通して武器にしていたことを聞いていたためである。マチュピチュ駅で現地(ローカル)のガイドにに聞いてみると「同じ採石場より盗んできて加工したものかどうか判らないが、時々本物があります、代表的なインカ石なので、ここに来た記念として大切にしたらいい」と話してくれた。
夕刻マチュピチュ駅を出発した列車は、クスコに向けて走り出した。帰りは右の窓席が良く、クスコからは左側の窓席に座るならいろんなことに出会うこと請け合い。途中のポロイ駅で乗客の多くが降りてバスに乗っているのでガイドに聞くと、ここより1時間かかるがバスなら15分で着くと列車の中で誘うらしく、別にお金を出す上、50分はかかるはず。ここまで来ていながらクスコの夜景が見れないのが損であるという。クスコの夜景が綺麗で眺めていると間近に牛を引いた親子がぼんやりと見え、ゆっくり列車に手を振っている。3500mに成りだんだん寒くなり、暖房もない車両内は肌寒く、より一層車内灯もぼんやり照らしているように見える。列車は、スイッチバック式で下るので必ず停止する。それを狙って乗客が飛び降りるので車掌は怒鳴ってばかりで大きなリックを背負った男女がかけて行くのが見える。午後8時5分にクスコ駅に到着した。駅の周りは食べ物や郷土品の店でごったかえしており、露店リヤカーがパンや果物や野菜などの食材を豊富に積み所狭しと並んでいる。チョロと呼ばれる三輪車が街の中を走っている。ホテルでの夕食を済ませて部屋に入り10時には眠っていた。午前2時に目が覚めたので起きて書きものをして朝の風景をホテルのベランダより撮っていると午後5時である。今日はプーノに向かう。
「雑木の掛け橋」「アンデスに掛ける橋」
村の娘が嫁ぐとき
必ず通る小さな丸太の橋
知らずして娘らが足を止め
水に映る我が身を眺め
遊んだ遠いあの日
何時か涙がせせらぎに落ちる。
急かされて歩く足どり重く
母がこの橋を渡り終えたら
振り向くなと言った涙の声は
何時か耳を抜け山々にこだまする。
母に背負られ渡った幼い日
今度この橋をきっとあの人と渡る
彼のもとへ続く道も遠くても疲れない
何時かこの道も二人で歩く
嫁ぐ日必ず渡たり立ちすくむ
村の丸太の橋
娘は涙と一緒に流すのである。
水の絶えない村はずれの 雑木の掛け橋 |