リマ〜クスコ

 クスコ空港
 重い荷物は
 係員がチェック
 次の日は午前2時に起き4時にホテルを出発した。空港に向かうバスの中でクスコに着いた時の心構えが空港に着くまで繰り返された。「禁酒、禁煙、禁欲(入浴と性欲)、食事はゆっくり食べる、スープも噛んで食べる、昼は腹八分目にすること」などの注意を受けていると空港に4時45分頃に着き、時間が少しあるので朝食のおにぎりを一個食べた。中身はおにぎり、みかん、唐揚げ、チョコ3個の不思議な組み合わせである。高山病は、体の中に酸素が入っている間は何ともないが、なくなると成るらしい。クスコには朝早く着くので昼食後が問題で、夜はシャワーの圧力で汗を流し、お湯には浸からない、枕は高くしないで足を高くして聖人のごとく右下で寝るのがいいらしい。いつもの通り各自で搭乗手続きを済ませチックインすると大きい荷物は係員が取って提げてみる。

クスコの全景
 (世界遺産)日干し煉瓦
 機体と写真に写り、着席して離陸時間を待っていると6時30分なのに空席はかなりあったが6時10分には空港を後にした。水平飛行にはいる前に機内天井の真中より白い煙がモウモウと吹き出てくるので機内は騒然と成ったが、クーラーの煙とわかってほっとした。前に乗った人は、離陸してすぐに酸素マスクが降りてきたので、人生の終わりと思ったらしいが、スッチーは顔色かえず、ガムテープでとめて行ってしまったらしい。左の窓からアンデスの山並みが見えたのでアメリカ人女性と席をかわってもらって写真を数枚撮った。サンドイッチとケーキとオレンジジュースが配られたが食べることができなかった。小柄な東南アジア系の女の子が歩いてきたので声をかけると阪急交通社の添乗員のお姉ちゃんだった。クスコの空港は4000m近くあるので着陸は難しく軽いほうがよく、霧が多いので早朝着陸が確実でリマに引き返すことが多いらしい。運良くアンデスの山あいをくぐり抜けた機体は徐々に下げて7時15分にクスコに着いた。

 高山病に効くコカ茶




 高山病の予防ハーブを
 売る少年
到着ロビーにはドデカイ黄金の仮面が飾られ、コンドルバス(コンドルは飛んでゆく)で迎えてくれた。バスに乗り込むと新たに2名のガイドがついたので紹介されバスは動き出した。クスコは、ケチャア語で「へそ」であり中心の街。16世紀にスペイン人の征服者たちによりインカは山奥へと追いやられ、インカ帝国の建物や石積みを壊し寺院、住居を造り壊した建物の上に新しい建物が造られている。現在使用されている多くの道路は、インカ道を基礎としており、橋、トンネル、灌漑用水路などは今でも使用されている。段々畑(アンデネス)は、人々の生活の糧を生み出すものである。インカ帝国には文字、車輪、鉄器はなかったが暦はあったらしい。ホテルに向かう街の中に9代皇帝の銅像が立っている。インカ帝国の首都であったクスコは天に近く、思いがアンデス山脈を越え届くように感じられたが、高山との戦いが思考を狂わせた旅と成ってしまったことに気づかなかった。クスコの近郊にはピサック市場など多くの魅力的な市場がある。身の安全を考えて「笛」を持ってきており我ながら良きアイデアと思った。 午前7時40分にホテルに着くとコカ茶が配られたので飲んでいると、その横にコカの葉が置いてあるので東北のおじさんがポケットにねじ込んでいる。有名なピサック市場を案内してくれと頼んだが、昨日観光客の女性が襲われたとのことで、地元のガイドは全然相手にしてくれない。手口はホテルより出てくる観光客をつけて人通りが少なくなったら首を絞めて気を失わせて持っているものを全て取ってしまうらしい。どうしても行きたいなら最小限の服と時計をはじめ装飾品を全てはずし、少しの小金を握りしめて行くしかないと言ってくれたが、案内する気はないらしい。諦めて部屋にはいると相当古いホテルで部屋には時計もなく暖房もきかなく、トイレも流れなく、プカプカ浮いてくる。220vでコンセントは日本と同じで便利で良かったが、テレビも9時には映らなくなってしまった。家具は民族調ものであるが、よく見ると古く部屋の鍵は自動ロックを加え3つもあり、部屋の鏡だけは縦2m横1mほどあり立派である。昼食まで寝るようにと言われたがなかなか寝られなく12時に1階のレストランに降りると昼食の準備ができており、チクワニ町の川で取れたペへレイ(川魚)がメインであっさりとしてうまい。じゃがいもが添えられているが半煮えで他に人参とインゲンとレモンが乗っている。

 ケンコー遺跡

サクサイワマンの巨石
 クスコ市街はピューマを形取っており、サクサイワマンが頭で、泊まったホテルの場所がしっぽに当たる。ここにもアルマス広場があり心臓部でインカ時代は「ワカイパタ」と呼ばれ神聖な場所であった。サクサイワマンは1日3万人が80年かけ造られた広大な石垣城塞で、形作る巨大な石をどのようにして運んだかが謎です。
 毎年6月24日にサクサイワマンの前でインティラミ(インカの祭り)が行われる。チチャは皇帝が太陽の神に捧げた後、皇后や太陽の処女に分け与える。リャマの首を切り胸を開いて心臓と肺を切り取り太陽の神に捧げる。リャマの血とトウモロコシの粉をまぜて饅頭を作り皇帝と神官がが食べる。話は変わるが、チチャモラーダは、抗酸化作用のあるポリフェノールの一種であるアントシアニンが含まれている。紫トウモロコシの種子より抽出した色素をゼリー、あめや飲料水の着色に利用している。紫トウモロコシの色素で大腸ガンを抑制することが証明されており、地元では、水煮した汁を布ごしし、新鮮な果物や砂糖を加えたものが愛飲されている。さらに片栗粉を入れてゼリー状に固めたものをマサモーラという。乾燥させたトウモロコシを水でふやかせてから噛み砕き、カメに吐き出して貯えて醗酵させたものがチチャ(どぶろく)で儀式に使われていた。噛み砕きカメに吐き出していたのがアマクーナの太陽の処女たちであった。聖なるものとしてピューマ、コンドル、ヘビで、空と地上と下界をあらわしている。スペイン人200人がやって来て皇帝はインカの守り神は白人なので足元に呼んでしまった。皇帝はおこしに乗っており決して地に足をつけない。スペイン人は隙をねらって皇帝を引きづり降ろしてしまったので、インカの兵はびっくりしてしまい唖然とし、兵の見ている前で皇帝は殺されてしまった。サクサイワマンは入口が小さくインカ最大の城塞であるが2万人が立て籠もり、反対の丘に200人のスペイン人が陣取り対峙した。インカは石で、スペイン人は、鉄、ホーガン、銃、大砲を持っていた。トウモロコシは、インカの民にとって聖なる食べ物なので種をまく時期には兵は畑に行くことに加え夜は戦わないので、奇襲をかけると逃げまどうだけであった。巨大な石は、街に降ろされ教会などの礎となった。現地の子供たちが高山病に効く野草(ハーブ)を持ってきて、しつこく買えと言うので添乗員が買っている。下り口にアルパカを引いているインディオの女性が手を招くので行くと、写真撮影なのだが、要求より極端に少ない小銭で済ませた。 

 専属モデル
次にケンコー遺跡に行くと巨岩の表面にジグザグ溝があり、チチャを流して、どこの溝を流れて行くかで豊作を占うもので中心を流れて行けば豊作とのことである。祭礼場で聖像を安置するための19の小部屋が造られ自然石の下に地下道がある。
  少し行くと「PUKA」があり、ケチュア語で赤いの意味で、別名「赤い要塞」といわれるプカプカラ、それに水浴場で石壁の隙間より昔と変わらず常に一定の水量で水が流れ続けているタンボマチャイ遺跡の水源も今でも謎である。遺跡の真中に民族衣装を着た少女が座っており、写真を撮るとモデル料を要求してくる。必ずその少女が写るのでよく考えているのか、ずうずうしいのか。ここは宿場であるが宿はなく、チャスキ(飛脚)は2km毎交代して走って伝達していたらしい。
インカの子孫)

 アンデスの民家訪問


 民家の庭
 少し下っていくと一般家庭と言われるインディオの民家に着いた。生憎雨が降っておりぬかるみが続く。畑の中をブタを追いかけて遊んでいる子供たちを横目で見ながら日干し煉瓦の家にはいる。入口にインディオのおばさんが座ってニコニコしている。家の中に入ると突然子供が現れ胸のボールペンをしつこせがむ。家族団らんの場所に裸電球が一個あり、奥では薪が燃えており大型ねずみのクスがネコとじゃれ合っている。仕事は家族分担制で父親はクスコ市内に働きに行き、奥さんが畑や財産のリャマやアルパカの世話をするらしい。クスコの公務員の平均月収は250ドル、一般は150ドルで、長くても5年くらいの勤めで、働きながら次のよりよい職場を捜すらしい。大学はクスコ大学が一つで他にいくつかの専門学校がある。小学校が6年、中学校が5年、大学が5年で卒業の年は22歳である。公立学校は三部制(朝・昼・夜)で行ける時に行けばよく、物売りの子供たちが多いのでそうしている。この家族にカップ有家そうめんを渡して写真を撮ろうとしたが子供が奪っていってしまったので、チラシだけの写真と成った。余談であるが、3歳に成るまで家族の人数に入れない。アンデスの民の寿命は平均で60歳位であるが、たまには驚くような高齢者がいるので、それが話題になって神様に崇められるらしい。日本のテレビ局がマカおじさんを紹介しており18歳をはじめ3人の彼女を持ち、毎日毎晩元気らしい。又、混血が強くて長生きするらしい。勤めは午前中は8時から12時で、16時まで昼休みでほとんどが家に帰る、それから16時から19時迄の勤めである。


 12角の石


 フォルクオーレショウ
 市街地に降りてサント・ドミンゴ教会に行くと雨が降ってきた。太陽の神殿(フリカンチャ)は、黄金の太陽神が祀られていて、この神殿の上にスペイン人が建てたのがこの教会である。1650年と1960年の2度に渡る大地震で上層部は崩れてしまったが、インカの石積みはびくともしなかった。11〜13度の台形にし日本の木造建築のように石と石を組み合わせているので地震に強い。石と石を組み繋げている。皇帝はミイラにして生きていることに成るので、一人ずつ宮殿を持っている。クスコの街にはインカの基礎を残してスペイン人はその上に石積みの建物を建てている。スペイン人がしたものは石と石の間に漆喰を使っているのですぐわかる。教会の中にある売店に行くと。コカインの飴があり、試食だけにして出口に来るとインディオの女性がアルパカの毛糸をつんでいた。
 カテドラルの裏手のアトゥンルミョク通りの片側で宗教美術博物館の石壁でカミソリの刃も入らないと言われる程すき間がない12角の石とツーショット。アルパカに引かれた少女が写真の前を通って行く。
  ホテルに早めに着いたので、ガイドの目を盗んで近くの食材市場に出かけて行くと大量のコカインの葉や名前わからない食材があったが、インカ塩とキヌアとマカとケーナを買って、ちゃっかり写真におさまった。帰りの道路沿いにペルー型共同店舗があり100店程入店しており珍しいものばかりである。ポーチとインディオの帽子とプロ用のサンポーニアを買って帰えり、ガードマンが鉄条網のロックをはずして中に入れてくれた。フロントは黒人との混血の美人がいたのでセフティボックスを借りることにした。横には両替をする女性がにっこり笑って座っていた。泊まりは我々だけで私が1回両替したでけで一日中黙って座っているのだろうか。
 夕食はバスに乗り市内の
レストランでフォルクオーレ、インカ帝国時代以前より受け継がれてきたビエンスト(風)と言われる音楽会。演奏中の中にオカリナを田中健に教えた先生がいた。アルパカの肉やクスの(大ねずみ)の肉が皿にあったので勇気をだして飲み込んだ。同行の静岡のにじゅうくさいのギャルをおだててステージに登らせ民族の踊りをさせてしまった。次の日はタイガーマスクならぬサンソーマスクにお世話になることに成り申し訳なかった。夏であるが夜は寒いので暖房にしてくれと要求すると音だけのサービス。やかましいのでスイッチを切って毛布引っ張り出して寝ることにしたが、近くの若者であろう、ホテルの前の道路で一晩中歌ったり踊ったりしているので寝付かれなかった。