木村優仁・木村優仁・木村優仁・木村優仁・木村優仁・木村優仁・木村優仁・木村優仁・木村優仁・木村優仁
支えてくれた人やツールたち
Blowin' in the Wind
島原手延そうめん 木村スイコ
支えてくれた人や特産品やツール     
1.母との出会い
○まず、母との出会いです。母は、私が海外などで不在の時は、電話があった場合は、丁寧に対応して名前と電話番号を聞いておいて、必ず帰宅したら連絡させますと伝え、相談活動を大変喜んで手伝ってくれました。
○カメラを常に持ち歩き記録してきたおかげで、国内外の長寿食材を求めての旅などの紀行書や記念誌や効果的な相談活動の冊子作成に十分に生きた。  
2.島原手延そうめんとの出会い
  麺の開発などを通じて国県市の方、マスコミの方、著名人、芸能人と繋がり、各方面から助けていただきました。マスコミ等の出演で知名度がアップしました。と
3.パソコンとインターネットとの出会い
  1981年(昭和56年)より、情報化を先取りして導入。動かなくても世界のことが手に取れた。
4.世界のオンブズマンと国際学会との出会い
  活動実践する世界の人たと繋がりました。
   
(詳細)上記 1~4までの出会いなどのエピソードを下記に記載しました。
1.縁先(縁側)に腰掛けて日なたぼっこしながら話してくれた母★との出会い

 父と祖母をはじめ自分の生い立ちと地域との関わり、そして常に祖先の息づかいが直に伝わる逸話を機会ごとに私に、そして、祖先が島原天草一揆(原城の乱)での移住者であること、代々原城を守ってきていることも話してくれました。

1.木村ス井コ(母:ペンネームは、粋子)
 まず、いちばん支えてくれた母のことからお話しします。母の生家の豊増家は、1637(寛永14)年に勃発した島原・天草一揆後の1642年の幕府の移住命令により佐賀の鍋島藩の豪族であった豊増市衛門が南有馬に移住してきたのが初代である。水飢饉が続く中、地域の住民が安心して稲作ができるよう自費で曲堤(かねんとつつみ)作ったので「てぼじいさん」と呼ばれていたそうです。

 大正14年生まれの母は、尋常小学校から高等女学校(高等小学校2学年を経ず)に
86年前に飛び入学している。どうして周りの人たちが2歳上なのか疑問に思っていたそうです。男性は学業が優秀で経済的に余裕がある家庭の男子は、旧制中学を受験していた。(写真は92歳:新聞取材時) 南有馬尋常小学校の1年生から、一度も父親(豊増宮市)は、成績表を見てくれないので、「おとうさん何故見ないのですか。」と聞くと「私の子なら見ないでわかっている。」との返事で一度も見なかった。両親が「ス井コは、特別に成績がいいので、上の学校にやりましょう。」とお母さんがお父さんに言っていることを聞いたらしい。だが、女学校3年生の時に母がなくなったので、住み込みや通いの使用人がいるので、母親のかわりをしなければならなくなった。 授業の終わり次第、部活に興じる生徒を横目で見ながら汽車に飛び乗った。祖母が生きていたら最終学校まで進学して別の人生を歩いていたことでしょう。祖母が怒ったことがあった。校長が、松平賞は首席である娘(ス井コ)さんですが、校長の子どもさんにやることにしたと、言い訳を言いに来たときです。

 女学校の同窓生は、教員や銀行などで働いているので、「おとうさん、私もみんなのように外に出て一度働いてみたい。」と言うと、父(祖父)は外に出したくないので、「養鶏の収入を全部やるから。」とはぐらかされた。相当の数を飼育しており玉子や鶏肉やヒナ(玉子をたどんで温めて孵化)を業者に販売していた。突然、お金持ちに成ったので、勉学欲の強い母はますます募ってきます。ヒナの雌を大村孵卵場より仕入れていたが、一匹も雄は混ざっていなかった。「お兄さんの家(島原)に泊まりで、遊びに行っていいね。」と言って、お金はあるので、お米を2合持ってこっそり出かけます。大村の国立高等看護学院を受験している。食事は、コッペパンと具もない薄い味噌汁、病院の2階が宿泊で窓から看護婦さんたちがバレーボールをしているのを眺めていた。同室は舞鶴から来た人で入学式で会いましょうと約束して別れた。長崎市内の短大の英文科、他にいくつかを受験しているらしい。全てに合格したが反対された。 さらに情報が飛び込んできた。1949年(昭和24年)5月に、日本で2番目の国立女子大である奈良女子大学が開校し募集が始まることを知って受験準備していたことを祖父は全て知っていた。あきらめられないのは、母の青春は戦争ばかりだったことによるのだろう。
 今まで、台北大学を出ての商船マンや教員など多くの縁談があったが、何らかの理由を付けて祖父がことわっている。だが、母は、既に24歳に成っていたので、これ以上手元に置けないし、試験ばかり受けるので、親族会議を開いて決めたいと親族を集めた。本家の当主が言うことに反論できる者がいないはずと母は事前に知っていた。幾つか縁談が持ち込まれており、役場に勤務する木村さんの方に祖父は決めた。母は、大学出の人を希望したが叶わなかった。これは有家町にあったまぼろしの第七高等小学校に通い、南有馬村役場にも自分が勤めていた縁を感じたのではないでしょうか。役場のことは、仲人の偽りであった。人生は、選択と決断の繰り返しの日々です。母は新切小学校の教員などの話が村長より持ち込まれたが、義母と義母姉が猛反対し、父も簡易郵便局、自動車教習所教官の話もあったが、全て断っている。

 尋常小学校で授業を受けているとき、雨が降ると、廊下で「おじょうさん、おじょうさん、傘を持ってきやした。何処に置いたらよかとですか。」と大声で叫ぶ。恥ずかしいので、黙っていると、さらに大きな声で叫び続けるので、先生が指示されたそうです。昼の弁当を隠して食べるこどもが多かったので、麦飯を持ってくるように言われ、食べる前にチェックされた。祖母が、かわいそうと思って白米の上に薄く麦を乗せて持たせてくれた。おかずは、味噌が漬物が多い時代に玉子焼きは必ず入っていた。「お父さん、夕食は何もおかずがないよ」と言うと、「玉子があるだろう」との返事だった。飼育していた鳥の種類は、白色レグホンで、強健で体に比べて首や足が長く早熟で産卵能力が優れていると母は詳しく説明した。私が赤玉を好むと、赤も白も栄養価は同じと、よく𠮟られました。

 母は、小学校低学年の頃に祖父に「郵便局に行って為替を組んできて。」とだけ言われて、為替を組んでとは、腕を組んでなら分かるがと、ドキドキしながら行った。郵便局で「為替を組んでください。」と言って渡したら、心配をよそに無事にすんだこと。半年の定期を買いに行くと9円だった。祖母は、何度も落としていないかどうか尋ねたらしいです。9円は当時は高額だったなのでしょう。母は、126代の歴代の天皇名や世界各国の産物や国の特徴や中国史(三国志など)を学校時代に覚え、忘れていないと、時折諳んじてみせた。

 国際オンブズマン世界会議とスウェーデン議会主催で、カール16世グスタフ国王とシルヴィア王妃ご臨席のもとオンブズマン制度創設200周年記念式典に参加するためにフィンランドの空港より電話かけて「今からスウェーデンに飛ぶ」と言うと「1時間だね」と言うので「何で分かるとねと」言ったら、「世界地図を胸に描いている。」と言った。また、国際オンブズマン会議で「あなたは、わたしの最後の希望です。」と言われるような「ウクライナのニーナさんが、自国での活動に感動した。」と言うと、ウクライナの産物や鉱物や歴史を話すではないですか。英文科を受験するのも当たり前、英語も私はかないませんでした。
 
 また、南米ペルーのクスコ(インカ帝国時の首都)から電話入れたら、すぐに「腹はこわしとらんね。」と聞くので、クスコは標高3400mの町なので高山病にかかっており、「何で分かるとねと」言うと、「私もこわしているから」と、そして「1年も私の腹ん中にかごんどったけんたい。」と言うのです。財布を持っていなくてお金を扱ったこともありませんが、家族生活の方針は全て母が決めていました。14歳から今まで80年間、ずっと家族の食事を作ってきています。スカートをはいた母を見たことがありません。時折、「男に生まれれば良かった」と言っていました。皆さんはどう思いますか。同じように仕事して、どんなに遅くなっても急いで夕食を作らないといけ

★ちぎり絵(粋子作)・干支は新年に友人知人に送っていました。 何度も有家から吉川まで私を抱いて線路を歩いて帰っていた。一番鉄橋が恐かったと。着いたら祖父は、今頃汽車はないはずだが、母は、友だちと会ったので話し込んでいたと答えた。「お母さんたち皆元気でおられるか、帰るのか泊まるのか」と聞く。泊まると言ったら仕事を続けて、帰ると言ったら、手伝人に肉やら魚を買わせた。

 そうそう、暗い炊事場で時々ドーナーツ風のものを作ってくれました。小麦粉を平らにして湯飲みの飲む方で押さえて切って、湯飲みのお尻で、真中に穴を開けていました。

 転職するとき、採用試験で簿記だけが零点でダメだったが、母は、もう一度受けるように言ってきた。島原市から加津佐町にある高校の簿記の担当の先生に「息子が簿記を勉強するので、使っていない教材を譲って欲しい。」と突然訪問して告げても相手にされないのも当たり前です。どうにかしたい母は、意を決して「怪しい者ではありません。兄は豊増大吉郎で教育界でお世話に成っています。」と告げると、持ちきれないほど頂いた。何本かつくらにウイスキーを忍ばせていたそうです。何校も回っているので、大きな段ボールで送ってきました。


○母の趣味

①ひょうたんの栽培と加工(有馬愛瓢会の発起人の駐在さんと共にの当初の会員で女性は珍しかった。(栽培から加工まで、大きさと長さにこだわっていた。)、
②ちぎり絵(長門先生宅での集まりに参加、干支を作成して毎年、友人知人にプレゼントしていた。)、
③ジャンボにんにく栽培(35年間栽培:1株4個~6個ほで玉が入っており1株で3~4千円)、何で売らんとね、とよく言われる。35年間販売してきたら、いくらになったことでしょう。
④中国歴史小説(女学校時代に読んだ三国志などに興味があった。)、
 習字(眞智子先生の指導を受けていた。段持ち)、
⑥テレビでは世界旅行など見るのが好きでした。 ニンニクでは毎年新聞に取り上げられ、ひょうたんは、慶事・受験(合格)・楽器での依頼があった。
 
 私が生まれるとき、当時は自宅で出産し、産婆さんにお世話に成るのが普通でした。何人かが来られて「お嬢さんの産前産後の1ヶ月、こどもの湯浴びなど全部して千円でいいです。」とあったらしいです。祖父は、祖母が亡くなり世話する母親がいないので、地域で出産した奥さんたちに準備するものなど聞いて回っている。出産には哲翁病院を用意してあった。朝昼晩の食事と母と私の世話をしてくれる人を雇ってくれていた。毎朝、乳がでるようにと早崎の魚(特にあらかぶ)を買って味噌汁で食べた。退院が近くなったので、使いの者が料金を聞いて驚いたそうです。帰って祖父に恐る恐る金額を伝えたところ、黙って渡された。母は後日、出産費用は18.000円と次兄から聞いた。

 2.島原手延そうめんとの出会い
 次に麺(メン)が支えてくれた。このような状況では大学を退学させないといけないと考えた両親は、島原手延そうめんを製造することにした。1971年(昭和46年)です。休みには帰ってきて製造の手伝いをした。粉や塩やデンプンや小麦粉はじめ製造工程などを写真に撮りながら勉強しました。小麦粉、塩、デンプン、むらしなどの製造方法工程を聴き取った。これらが後に、むらおこし、わざおこし、まちおこし事業に活かされた。麺と出会って2023年で52年目になります。多くの方に支えていただきました、麺博士が開発した、「ハイブリット輪状二層めん」を一級製麺技能士たちの助言のもと加工して、ローマ教皇・ヨハネパウロ2世に献上しました。さらにスペインのセビリアの大聖堂に献呈し、セビリア市役所の市長に謹呈しました。多くの人の力をお借りして即席麺・未来麺・機能麺を開発して、日本では珍しい「むらおこし・わざおこし・まちおこしの」3つの「おこし」に取り組んできました。

○即席麺・未来食

 即席カップ冷やし手延そうめんを開発して沖縄の物産展で発表しました。次に全国の賞や県知事賞をはじめ多くの賞を受賞したので池袋サンシャイン60のコンベンションホールにて発表しました。そこのお客さんは、あったか麺の方が旨いとのことで、売れに売れて対応できなくて主催者スタッフも大勢協力してくれました。長崎県にもご協力いただき、長崎から県議が多く来場されて、一緒写真におさまりました。多くの補助金をいただき、「有家そうめん」として、島原そうめんの普及拡大の広告塔しての位置を確立するに至りました。

◆長寿食の日本での第一人者の永山久夫先生
 夫婦で池袋の会場に来られ親しくなりました。当地で講演会を実施したとき私の両親も会っています。永山先生に、そうめんに混ぜる長寿食材にコーカサス地方の乳酸菌(ヨーグルト)はどうですかと言うと、動物性なのでお薦めできない。韓国キムチは植物性乳酸菌なのでいいと言われた。また、これからスーパーフードがブームに成るから南米ペルーはどうだろうかとあったので、すぐに出かけた。高山病と闘いながら、スーパーキヌア・アマランサス・キャッツクロー・ウルトラマカなど持ち帰って、そうめんに混ぜて、試作を繰り返した。(言われるとおり何年か後にブームになり最近もブームである。)

 人気商品になったので、公的機関で利益を出してはよくないので、別会社を作った。10年間公的機関の中に販売会社が存続することになった。諸先輩や同僚が異動するなか、私だけは異動しなかった。テレビ(長崎県・熊本県・福岡県・東京都のテレビなど)、新聞(島原新聞・長崎新聞をはじめ全新聞社)、ラジオ(長崎県・熊本県など)、雑誌(るるぶ・週間朝日・読売旅行など)多くのマスコミに取材していただきました。東京ビックサイトで3日間に20万人来場する世界の物産典に出展していた時、総合商社との商談やノウハウを譲渡などありましたが全てお断りした。これは、島原手延そうめんの販路拡大の広告塔の役目を担っているからです。全く同じの商品を作り、企業力で販売拡大して大手航空会社のショッピング雑誌に記載されています。飛行機に乗ったら見てください。大手企業がまねしたくなるような、素晴らしく体にやさしい商品と言うことです。麺のお陰で、多くの人と出会い相談活動に活きてきました。父と母は、献上品の線香巻き、包装の手伝い、ラベルのデザインと高齢者が好むFD加工度合い、麺の太さ、堅さ、風味(あごだし)、加薬(具材)などを変えての試食テストに進んで協力してくれました。結果的には「母のためにと作った即席長寿麺」だったのかも知れません。
 
 3.パソコンとインターネットとの出会い
 昭和56年よりNECのワープロ、次にNECのPC-98との出会いがあった。パソコンと出会って、2023年で42年目と成ります。若い人の相談が少ないので、気軽に相談出来るようネット(パソコンとスマホのWEBサイト用)での相談を受付けてきました。地域の実情に沿って、そして暮らしている方々を思い描き、さらに声に出せない声をキャッチできるようにと、取り組んで参りました。このように、当地は島原手延そうめんの産地で、仕事が済まれてでも相談出来るように相談会を夜に開催してきました。日本で情報技術(IT)化が叫ばれるだいぶ前での先駆的な取り組みであったが、こんなに大きな成果を持ち込んでくれるとは思いもしなかったです。ホームページの発信数は、相当の数になります。ネットは世界と繋がっているので、早くより情報収集などに利用してきて、人生のいろんな場面に活きたので他の人より恵まれてきたと思っています。ネット(メール)やLINE相談も文字でのやりとりです。これは好きな時間に自由に書けるメリットがあり、声に出せない声を聴くことが出来ます。いろんな場面でアンケートをお願いしています。アンケートには、①講演内容の評価(要望意見・苦情など)②実施者の意図する結果に誘導、事前想定結果の確認③声なき声を聴き、みんなと繋がるなどの目的効果があります。記入は自由で負担を与えない、何でも書ける自由意見欄で明日の声が見えたりする。しかも手軽に用意でき素晴らしいツールです。早くよりパソコンに出会っていましたが独学でした。3~5年ごとに1ヶ月から1ヶ月半ほど東京の中小企業大学に入校して次代に沿った経営全般の講義を受けます。パソコン操作、ネット及びソフト活用の実践を学ぶことが出来ました。最終の何日間は、これからの成長する分野の起業化プレゼンコンテストがありました。全国から集まった社会人学生が予選・決戦と進めて行きます。退職まで5~6回入校しましたが、コンテスト毎に最優秀賞を受賞し、副賞に学長賞をいただきました。パワーポイントでのプレゼンは、今に活きています。仕事を離れて入校することは、自分を見つめ直し、これからの人生を考える時間でもありました。
 4.世界のオンブズマンと国際学会との出会い
 日本オンブズマン学会に加入。オンブズマン制度は、1809年にスウェーデンで創設された。国際オンブズマン研究所主催の国際会議を、200周年になる2009年にスウェーデンで開催され招待を受けて出席しました。全てはメール(英語)でのやりとりでしたが、形容詞など不必要な言葉は抜き、単語の列記ですむのはそうしました。毎年実施する中学生のイタリアのホームステイも世界共通の言葉の「ジェスチャー」が活躍します。日本人は逃げるが、外国では大半の人が日本語を話せると答えます。4日間の会議で、会議後の会食のドレスコードがありました。3日間はカジュアルでよかったが、4日目の晩餐会はフォーマル(正装)○○以上と指定がありました。1日目は博物館に案内され入口でワインが渡された。ワゴンにはワインや飲み物や料理が並べられ至る所ですすめられるたびに、これが夕食かと食べていた。午後9時頃に高級レストランに案内されフルコースを午前1時まででした。普段食べられない高級な料理が目の前にあるのに食べられない思い出です。日本から総務省と学会理事長兼大学教授と私が出席しました。二人は、研究者なのでプロフェッサーとして、私は活動しているのでオンブズマンとして登録しました。スウェーデン議会主催でカール16世グスタフ国王王妃ご臨席のもと、ストックホルム市庁舎のブルーホール(青の間)での晩餐会では、総務省と教授は30番テーブルで、私は4番デーブルでした。これは、オンブズマンとして世界的に認められた最初ではないでしょうか。
 
もどる