| ルーツを訪ねて |
![]() |
| 初代豊増市衛門から12代目 豊増粋子さん |
| 父の木村家に、母は豊増家より嫁いできた。木村家は分家も親戚にも1軒も木村の姓はない。私が生まれたときに、深江町から南島原まで1万世帯あったが、うちだけだった。中学校まで本村(もとむら)と呼ばれたが、高校は島原市だったので木村と呼ばれた。木村家は何度も養子を入れて繋いできた。 |
| 母の実家の豊増家は、島原乱後に移民政策で、佐賀の鍋島藩の豪族であった豊増市衛門が1642年に南有馬に移住した。 |
![]() |
| 兄の豊増大吉郎は、小学校は、地元であるが、父の豊増宮市の弟が英語の教師で福岡に住んでいたので、この才能を、この山の中に埋もれさせたくないとのことで、中学は福岡である。広島師範を出て、島原中学校(島原高校)に勤務、壱岐高長、佐世保校長、大崎高校長をして退職。その後。島原中央高校の校長に成っている。この高校がボランティアや地域活動を授業に入れたのは、豊増校長に成ってからで、心のきれいで素直な子が多いといつも言っていた。私が教師として誘われたのが、この頃である。豊増家の墓は吉川の海を望む所に代々の墓があり粋子さんは23代目と成る。 |
| ◆幻の第七高等小学校の秘話 |
| 明治19年に発足し、45年に突然消えており、謎の多い学校で、知る資料も残っていない。偶然に郷土誌を「ひょうたん博士の豊増粋子先生」に見せたら、卒業証書に目がゆき、以下豊増粋子(母)さんのお話。 有家町下町で十八銀行があった場所で、尋常小学校を卒業して行く学校で4年間だった。明治32年5月の卒業証書で、有家高等小学校長 内藤政策とある。内藤氏は、豊増大吉郎(兄)の妻の父であり、島原藩の武家。丹崎家と谷崎家とも継いでいる内藤家の一人娘で、結婚の時は武家では養子をとる必要があったので、粋子さんを希望されが、刀剣や甲冑をはじめ財産目当てと思われるので、兄が断り、奥平家の3歳児が養子に成っている。 父の豊増宮市は、明治15年に南有馬吉川に生まれ、南有馬尋常小学校を4年行き、まぼろしの第七高等小学校に2年通う。毎日わら草履をひとつ。弁当を2個、風呂敷に入れて通ったらしい。今、原城入口にある川口石油があるところが一番怖かったらしい。南有馬から3人来ており、ひとりは大江のシカノさんと言う女性だった。3年目に口加高等小学校へ移り、殿様路を歩き、山を越えた。途中に看護石があり、いつも休んでいたという。近くに神社があり、奉納相撲があっており、あずきの入った餅をとっかに包んでもらったという。 |
| 北村西望さんの兄が村長の時、助役をやり、その後、蜜柑をはじめ農業全般に詳しく、吉川みかんを最初に植え、島原半島の大半は豊増宮市が栽培した株分けであり、県内外からも要望があったので分けてやっていた。技師を含め6名ほどの雇い人がおり、身の回りの世話は、女中がしてくれた。仲間に伊木力ミカンの中野たえもんさんと協同にて研究。中野さんは当時でも地下室があったという。 当時は食べるものも少なく、まして蜜柑も珍しかったが、地域の老人を敬うことを優先に、出荷する前に、ます60歳以上の老人に、毎年「蜜柑」を配っていた。 ラジオで毎月季節ごとに「輪作体系」を放送していた。土地が、1年中、有効利用できるように考えての指導で、自らの研究を生出演で行なっていた。 将来、酪農の必要性を考えた父は、自費で宇野より乳牛を仕入、浦田の駅の前に牛乳とバター工場を建てた。初めは、協力企業が森永であったが、途中より明治乳業に変わっている。 又、柳川より貝を三隻に積み込み、干満の差が特に大きい、北岡の浜で養殖し缶詰工場を建てようとしたが、昼間は見張りで番で防げるが、月夜の晩に掘られることに気づかなく、取られてしまった。生前、父に「こんない行なって、失敗したことは、ないのか」と聞いたとき、唯一の失敗と話してくれた。 ◎父(宮市)の交友関係 本多一郎 氏(第50代 第3次吉田茂内閣の行政管理長官) 本多氏は、外遊したとき、ラクダに並んで乗っている写真を持ってきた。 もう一人は、尾崎萼堂氏(尾崎行雄、1857年、安政5年生まれ、福沢諭吉や大隈重信との出会い、文部大臣、東京市長、司法大臣、天皇陛下の相談役とも言われ東京都名誉都民第1号、97歳にて永眠)であった。 |
| ◆木村優仁の思い出 |
| 吉川駅におり、線路を口之津方向に歩く。踏切を右折すると、大きな堤が左に来る。登って行くと、右に家が見え、さらに登ると堤か池が右にある。そこから先は、60度くらいの坂で、竹の根っこが至る所に出ているので、それらをつかんで登る。湿っていればよく滑った。 左が牛舎で、真中に風呂と便所の棟、右が母屋だった。母屋の裏は竹林に成っており、崖を下る前に、皮の薄い平戸ボンタンの木があった。たわわに実っており、美味しくてたくさん食べた記憶がある。 わたしは、昭和26年に、口之津の哲翁病院で生まれました。母の母が女学校時代に亡くなっており、母の父(豊増宮市)は病院で出産するよう手続きして、身の回りの世話をする女性を雇って、出産後も20日ほど病院で保養したそうです。朝昼晩の食事を作ったり、特に朝は、早崎の人がアラカブを売りに来ており、乳の出が良くなるように、味噌汁に入れて食べていたそうです。子の私は24時間女性が世話してくれたとのことでした。兄(次兄)が病院代を払いにきて、請求書を見て驚いたそうです。昭和26年の18000円です。その頃は、何処の家にも現金がなかった。小学校の先生の初任給が5050円でした。母は、産婆さんから、産前産後、全てしますので1000円でどうですかと言われたそうです。父の宮市は何も言わなくてすぐ払ったそうです。 |
| ◆豊増粋子さんの母の思い出 |
| 明治21年生まれの母は、龍石の本多家より嫁いできた。西有家尋常小学校を卒業しており、残っている卒業証書に校長が内藤政策(長兄の大吉郎の妻の父)氏とあるので、第七高等小学校と校長を兼ねていたと思われる。 |
| ◆新聞記事の掲載 |
| 6月5日に山口佐賀県知事にお会いした際、母方の先祖が佐賀と縁があることを話させていただきました。 母(ス井コ)の生家である豊増家に少し触れますと、豊増家は1637(寛永14)年に勃発した島原・天草一揆後の1642年の幕府の移住命令により佐賀の鍋島藩の豪族であった豊増市衛門が南有馬に移住してきたのが初代である。水飢饉が続く中、地域の住民が安心して稲作ができるよう自費で曲堤(かねんとつつみ)作ったので「てぼじいさん」と呼ばれていた。母の父である宮市は20代目に成る。明治15(1882年)年3月16日に南有馬吉川に生まれ、南有馬尋常小学校を4年行き、まぼろしの第七高等小学校(有家町下町の十八銀行社の社宅)に2年通う。毎日わら草履をひとつ風呂敷に入れて通ったらしい。原城入口にあった川口石油さんがあった場所が一番怖かったらしい。3年目に口加高等小学校へ移り、殿様路を歩き、山を越え途中に看護石があり、いつも休んでいたという。 北村西望さんの兄の総族さんが村長の時、助役をやり、その後、村長と成った。初代が作った曲堤が20日で枯れるので掘り下げ、その土は埋め立てに利用して田畑(吉川の墓のあたり)の耕作面積を広げた。並行して白木野の堤も掘り下げている。 又、吉川みかんは、伊木力みかんの中野たえもんさんと共同にて研究開発した。中野さんは、技師を含め6 名ほどの雇い、当時でも保管する地下室があったという。滞在中は、身の回りの世話は、女中がしてくれたらしい。 宮市は、蜜柑をはじめ農業全般に詳しく、吉川蜜柑を最初に植え、島原半島の大半は宮市が栽培した株分けであり、県内外からも要望があったので分けてやっていた。当時は食べるものも少なく、まして蜜柑も珍しかったが、地域の老人を敬うことを優先に、出荷する前に、ます60歳以上の老人に、毎年「蜜柑」を配っていた。ラジオで毎月季節ごとに「輪作体系」を放送していた。土地が、1 年中、有効利用できるように考えての指導で、自らの研究を生出演で行なっていた。将来、酪農の必要性を考えた宮市は、自費で宇野より乳牛を仕入、浦田の駅の前に牛乳とバター工場を建てた。人造バターではなく本物志向を消費者が求めて来ると考え、真性バターにこだわった。初めは協力企業が森永であったが、途中より明治乳業に変わっている。母が大きくなるまであったという。 長浜(浦上病院の下)では自殺者や切腹する者が多かったので、見張り番をさせていたが夜には誰もいなくなるので、宮市自身が夜には見張りについていた。行き倒れが多いので、それを聞くと「握り飯」を持って走った。 又、柳川より貝を三隻に積み込み、干満の差が特に大きい北岡の浜で養殖し缶詰工場を建てようとしたが、昼間は見張りで番で防げるが、月夜の晩に掘られることに気づかなく取られてしまった。生前、父に「こんなに多く行なって失敗したことはないのか」と聞いたとき、唯一の失敗として話してくれた。原城の蘇鉄が耐えないように株分けして有家の寺、深江、島原など島原半島の至る所に植えている。初代「市衛門」と生誕日が同じなので、生まれ変わりと信じて精進し、周りの人の為にと尽力した生涯であった。 母は、豊増宮市の四番目に生まれ、長男が豊増大吉郎で島原中学校の教諭から県内高校の校長から島原中央高校の校長になった。次男は県庁、長女は教諭となった。母は、長男(大吉郎)とは16歳違うので、時々家にくるお兄さんは誰だろうと思っていた。網で取ったさかなではなく一本釣りの魚を使用人にわざわざ買わせていたらしい。時代は昭和5年頃(母5歳)であるが、兄の給料は百円と母は記憶している。小学校の先生が50円であった。 |