◆ 略歴 ◆ |
◇総務省 行政相談委員
◇長崎行政相談委員協議会 会長
◇九州行政相談委員連合協議会 連合会長
◇社団法人 全国行政相談委員連合協議会 役員
◇総務省 地域リーダー養成専任講師(委員25名・大学教授等8名)
◇国際オンブズマンOmbudsman
◇所属学会:日本オンブズマン学会
◇法務省 人権擁護委員
◇島原人権擁護委員協議会 会長
◇長崎県人権擁護委員連合会 連合副会長
◇南島原くらしの総合相談所 所長
◇アンデス食文化研究所 主宰 (長寿食材・発酵食・矛盾学・未来学)
○南島原市個人情報保護審議会 委員長
○特定非営利活動法人(NPO法人)「障害者自立支援センター」最高顧問
○特定非営利活動法人(NPO法人)「障害者就労支援センター」相談役
○職場体験・総合的学習時間GT(ゲストティチャー))
○有家町商工物産振興会設立(合併まで)経営企画室兼開発室長
○地域後継者先進地視察研修(揖保・小豆島)・メンテック21創造開発会議事務局長
○有家町遺跡文化活用による街おこし事業
○有家町保育園保護者会連絡協議会の連合会長(5つの園)
○総務庁 工業統計調査員
○九州陸上無線協会設立委員(九州電波監理局内:熊本市)
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◆ 木村家 ◆ |
◆次に木村家のお話しです。木村家は2代にわたり戸主が30代で若くして亡くなったので、父(俊晴)は、家族を守るために尋常小学校をやめて家業の農業に従事している。おのずと田畑も少なく苦しい生活であった。わたしは、農家の長男として生まれたので、後を継ぐものと父はじめ誰もが思っていた。友だちと遊びたいのに、小学生になったばかりでも農作業に連れて行かれてた。農作業が嫌で嫌で、どうしたらしなくてよいのかを考えて料理をするようにした。小学校2年生になると、料理はまともに出来ないが祖母がいたので「母ちゃん、夕ご飯のしたくで先に帰ってよかね」と言って先に帰った。現在に至っても料理することは苦にならない。工夫が必要なので、採用時に料理するのか聞けば参考に成るのでは。
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授業参観や学校の集会には祖母が来ていた。私が「友だちの母ちゃんは口(唇)に赤いのを付けて来るのに、なして母ちゃんは一回も来んとね。」と言ったらしい。祖母はよく私を連れて外出した。しゃべれなくても「あっあっ」とお辞儀するし、しゃべり出すと、思いがけないことを言うので、まわりから可愛がれたそうです。小川の町営住宅が十戸建てられている時、一戸一戸見てまわって「どれにしようか。」と言っていたそうです。就職しての初任給で祖母に茶器セット(写真:現在も保存)を送った。祖母も思いがけないことで喜んだが、母が一番喜んでくれた。祖母の葬式後、母は、我々は喪に服するが、お前の気持ちはわかるが、東京に着いたら、まず、いい肉や魚を食べなさい。と言って送り出した。
中学校卒業前に料理店住み込みか調理学校に行かせてほしいと言ったら、「高校は出んば」と言われた。すぐ母は担任に会って、何処を受験できるか聞いて帰って来るなり、この高校を受けなさいと言った。受験勉強もしていない上、家にはお金がない。島原までの汽車の定期券と月謝の支払いなど不安があった。父は母の決めたことには賛成してくれた。高校3年間は授業は休まず真面目に受けたが、定期的にある試験など一切勉強しないし、する必要はないと思っていた。当然に、「木村、月謝はまだね。」と度々催促された。卒業近くなると進学担当の教師からリクルート雑誌をもらって、めくっていると産経新聞を配達して夜間大学に行って、何年か後に昼間に移行する内容があったので、進学担当教諭に相談した。教諭からすぐに母に連絡がいき、進路希望内容が伝わった。
母は、わたしを呼んで「大学に行きたいのか。」と聞くので、「行きたい」と答えた。「お前は受験勉強はしとらんじゃろ、もう受験できる大学はない。浪人はさせられない。母は、進学の先生と相談して決めるので、決めたところを受験しなさい。」と言った。二次募集があれば連絡しますと言われたらしい。「母ちゃん、大学なら何処でもよかとね。」と聞くと、「大学は、人間形成の場であり、行くお前次第だ。」と言った。上の学校に行けなかった母の青春の苦い思いをわたしに託したかも知れません。月に5千円しか送ってくれないので、4年間寮生活で家庭教師などのアルバイトばかりの生活でした。だが、授業は休まないようにしていた。それは、お金がないのに生活を切り詰め辛抱して、5千円送ることがやっとのことの両親を思うと授業を休めなかったからです。
大学の休みに帰省して手延そうめん製造を手伝った後、毎日、通りに面した部屋で、ギターをたたき大声で歌っていた。母は近所迷になるのでやめて欲しいと歌うたびに言った。次第に「これは青春、はやめてくれんね。」と言うようになった。
父は生涯6軒、家や工場を建てている。お前は1軒も家を建てないで私たちの家を自分の家のように自由に使っている。1軒くらい家を建ててみろと機会ごとに母は言っていた。8部屋の内5部屋と80坪の工場の半分をパソコン機器、行政相談関係資料、人権相談関係資料、ポスター、チラシ、賞状額30個、海外から持ち帰った資料やインカ塩やお面や石などの置き部屋にしているためでしょうか。
人生2回転職した。高校や役場の話もあった。アグネスラム・蓮舫・かとうれいこ・烏丸せつこなどのクラリオンガールで有名なクラリオン株式会社に興味を持ち、いつもの通り履歴書と志望動機を綴った文書を入れて送った。一次が通って面接の時、当社を選んだ理由はと聞かれ「食うため」とこたえて採用された。文字の威力を痛感し、益々興味を持ち、さらに磨きをかけていこうと思うように成った。 |
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◆ まぼろしの第七高等小学校の秘話 ◆ |
◆幻の第七高等小学校の秘話
明治19年に発足し、45年に突然消えた謎の多い学校で、わかる資料も残っていない。偶然に有家町の郷土誌を母(ス井コ)に見せたところ、卒業証書に目がゆき、以下母のお話し。有家町下町で十八銀行があった場所で、尋常小学校を卒業して行く学校で4年間だった。教職員の再教育も兼ねていた。明治32年5月の卒業証書で、第七高等小学校 校長 内藤政策とある。内藤政策氏は、兄、豊増大吉郎(筆者の伯父)の妻の父であり島原藩の武家で代々指南役。丹崎家と谷崎家の2家を継いでいる。伯母は内藤家の一人娘で、結婚の時は、武家では養子をとる必要があったので、母を希望された。だが、刀剣や甲冑をはじめ財産目当だと思われるので、兄(伯父)が断り奥平家の3歳児が養子に成っている。伯父の結婚式は、島原の米屋旅館で行われ、高齢の方が階段できつそうにされていたので、母が手を貸そうとしたら、「結構でござる。」と武士語で返された。
◆豊増大吉郎(母の兄・伯父)
あまりにも成績が良かったので、こんな田舎におくのはもったいないと、子どもがいない福岡の親戚(英語教師)が預かり、福岡の中学校から広島高等師範学校(現在の広島大学)に進学した。漢文で身を立てようと努力していたが、病気で叶わなかった。突然、漢詩屏風をだされても即座に読み解説していた。戦争では文書解読や通訳で重宝がられたらしい。旧制島原中学校(現在の島原高校)に勤務し、県内高校の校長を歴任して退職した。体が弱かったので、休みがちだったらしいです。その後は、島原中央高等学校の校長に就任している。この高校がボランティアや地域活動を取り入れたのは、豊増校長に成ってからで、心のきれいで素直な子が多いといつも言っていた。私が教師として誘われたのが、この頃である。地元に帰ってきて伯父から「双美塾」と「TGC(豊増ゴルフクラブ)」の集いがあるので、参加してはどうかとあった。伯父の教え子中心で、年齢が離れているので、迷惑をかけると遠慮していると、「お前も島原高校を出ているのでよかと。言っておくから」とあったので、TGCに参加するようにした。合同慰労会や忘年会などは、島原保養センターで開催された。
長女 仁美が生まれたとき命名の書をお願いしたとき、伯父は書きながら「梅の種を割ると白い実がある。それを仁(ジン)と言って、固い殻を破って芽を出す姿こそ美しいのだ。仁美と、よき名前を付けた。これからの女性はこうあるべきだ。」と話してくれた。母は、兄(伯父)とは15歳違うので、時々家にくるおじさんは誰だろうと思っていた。網で取ったものではなく一本釣りの魚を使用人にわざわざ買わせていた。時代は昭和6年頃であるが、兄の給料は百円と母は記憶している。 |
◆ まぼろしの ◆ |
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◆ まぼろしの ◆ |
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◆ まぼろしの ◆ |
明治19年に発足し、45年に突然消えており、謎の多い学校で、知る資料も残っていない。偶然に郷土誌を「ひょうたん博士の豊増粋子先生」に見せたら、卒業証書に目がゆき、以下豊増先生のお話。
有家町下町で十八銀行があった場所で、尋常小学校を卒業して行く学校で4年間だった。明治32年5月の卒業証書で、有家高等小学校長 内藤政策とある。内藤氏は、兄、豊増大吉郎(筆者の伯父)の妻の父であり、島原藩の武家。丹崎家と谷崎家とも継いでいる内藤家の一人娘で、結婚の時は武家では養子をとる必要があったので、粋子先生を希望されが、刀剣や甲冑をはじめ財産目当てと思われるので、兄が断り、奥平家の3歳児が養子に成っている。
父の豊増宮市は、明治15年に南有馬吉川に生まれ、南有馬尋常小学校を4年行き、東有家高等小学校に2年通う。毎日わら草履をひとつ風呂敷に入れて通ったらしい。今、原城入口にある川口石油があるところが一番怖かったらしい。南有馬から3人来ており、ひとりは大江のシカノさんと言う女性だった。3年目に口加高等小学校へ移り、殿様路を歩き、山を越えた。途中に看護石があり、いつも休んでいたという。近くに神社があり、奉納相撲があっており、あずきの入った餅をとっかに包んでもらったという。 |
◆ 学生時代 ◆ |
兄の大吉郎は、小学校は、地元であるが、父の宮市(筆者の祖父)の弟が英語の教師で福岡に住んでいたので、この才能を、この山の中に埋もれさせたくないとのことで、中学は福岡である。広島師範を出て、島原中学校(島原高校)に勤務、壱岐高長、佐世保校長、島原高校長をして退職。その後。島原中央高校の校長に成っている。この高校がボランティアや地域活動を授業に入れたのは、豊増校長に成ってからで、心のきれいで素直な子が多いといつも言っていた。私が教師として誘われたのが、この頃である。豊増家の墓は吉川の海を望む所に代々の墓があり粋子先生は18代目と成る。 |
◆ 南有馬村の豊増家 ◆ |
父の豊増宮市は、明治15年に南有馬吉川に生まれ、南有馬尋常小学校を4年行き、東有家高等小学校に2年通う。毎日わら草履をひとつ風呂敷に入れて通ったらしい。今、原城入口にある川口石油があるところが一番怖かったらしい。南有馬から3人来ており、ひとりは大江のシカノさんと言う女性だった。3年目に口加高等小学校へ移り、殿様路を歩き、山を越えた。途中に看護石があり、いつも休んでいたという。近くに神社があり、奉納相撲があっており、あずきの入った餅をとっかに包んでもらったという。
蜜柑をはじめ農業全般に詳しく、吉川蜜柑を最初に植え、島原半島の大半は父が栽培した株分けであり、県内外からも要望があったので分けてやっていた。技師を含め6名ほどの雇い人がおり、身の回りの世話は、女中がしてくれた。仲間に伊木力ミカンの中野たえもんさんと協同にて研究。中野さんは当時でも地下室があったという。
当時は食べるものも少なく、まして蜜柑も珍しかったが、地域の老人を敬うことを優先に、出荷する前に、ます60歳以上の老人に、毎年「蜜柑」を配っていた。
ラジオで毎月季節ごとに「輪作体系」を放送していた。土地が、1年中、有効利用できるように考えての指導で、自らの研究を生出演で行なっていた。
将来、酪農の必要性を考えた父は、自費で宇野より乳牛を仕入、浦田の駅の前に牛乳とバター工場を建てた。初めは、協力企業が森永であったが、途中より明治乳業に変わっている。
又、柳川より貝を三隻に積み込み、干満の差が特に大きい、北岡の浜で養殖し缶詰工場を建てようとしたが、昼間は見張りで番で防げるが、月夜の晩に掘られることに気づかなく、取られてしまった。生前、父に「こんない行なって、失敗したことは、ないのか」と聞いたとき、唯一の失敗と話してくれた。◆豊増宮市(母の父で私の祖父)
明治15(1882年)年3月16日に南有馬吉川に生まれ、南有馬尋常小学校を4年行き、まぼろしの第七高等小学校(有家町下町の十八銀行の社宅の場所)に2年通った。毎日、弁当を2個と、わら草履を2足を風呂敷に入れて通った。原城入口にあった川口石油さんがあった場所が一番怖かったらしい。幼い子に長い道のりを通わせ勉学させた曾祖母がいたからこそです。教育となれば女性が活躍する家系です。明治26年に口之津・加津佐・南有馬三ケ村連合高等小学校が口之津に開設されたので移り、殿様路を歩き山を越え、途中に看護石があったので、いつもそこで休んでいたという。近くに神社があり奉納相撲があっており、あずきの入った餅をとっかに包んでもらったと、母は聴いている。
北村西望さんの兄の北村総族さんが村長の時の前後に助役をしている。家に役場の人が書類を持ってきて「すけやく」さんいますかと聞くので祖母は「じょやくですよ」とかえしていた。初代の市衛門が作った曲堤(かねんとつつみ)が20日で枯れるので自費で掘り下げ、その土は埋め立てに利用して田畑(吉川の墓のあたり)の耕作面積を広げた。並行して白木野の堤も自費で掘り下げている。又、吉川みかんは、伊木力みかんの中野たえもんさんと共同にて研究開発した。中野さんは、技師を含め6名ほどの雇い、当時でも保管する地下室があったという。滞在中は、身の回りの世話は、女中さんがしてくれた。南からの潮風を受けて段々畑にマッチした吉川みかんを開発した。島原半島の大半は、祖父(宮市)が栽培した株分けであり、県内外からも要望があったので分けてやっていた。
◆父(宮市)の交友関係(本多大臣・尾崎大臣)
本多一郎氏(第50代:第3次吉田茂内閣の行政管理長官)北岡の干拓
本多氏は、外遊した時、ラクダに並んで乗っている写真を持ってきた。もう一人は、尾崎萼堂氏(尾崎行雄、1857年、安政5年生まれ、福沢諭吉や大隈重信との出会い、文部大臣、東京市長、司法大臣、天皇陛下の相談役とも言われ東京都名誉都民第1号)であった。祖母(母の母)明治21年生まれの祖母(ス井コさんの母)は、龍石の本多家より嫁いできた。西有家尋常小学校を卒業しており、残っている卒業証書に校長が内藤政策氏とあるので、第七高等小学校の校長と兼ねていたと思われる。
幼い頃の思い出 吉川駅を降り、線路を口之津方向に歩き踏切を右折すると、大きな曲堤(かねんとつつみ)が左に在る。登って行くと右に家が見え、さらに登ると大きな池が右にある。大きな鯉(有家の庄屋さんが定期的に購入)が泳ぎ、殿様蛙が飛び回っていた。そこから先は、60度くらいの坂で、竹の根っこが至る所に出ているので、それらをつかんで登る。雨の後などで湿っていればよく滑った。戦前は、祖父のところには有家をはじめほうぼうの方が年貢米の徴収のついでに寄られていた。左が牛舎で、真ん中に風呂と便所の棟、右が母屋だった。母屋の裏は竹林に成っており、崖を下る前に、ねむの木や皮の薄い平戸ボンタンの木があった。たわわに実っており、美味しくてたくさん食べた記憶がある。豊増家の墓は吉川の海を望む所に代々の墓があり母は18代目と成る。
当時は食べるものも少なく、まして蜜柑も珍しかったので地域の老人を敬うことを優先に、出荷する前に、60歳以上の老人に毎年「蜜柑」を配っていた。蜜柑をはじめ農業全般に詳しく、ラジオで毎月と季節ごとに「輪作体系」を放送していた。土地が、1
年中、有効利用できるように考えての指導で、自ら出演で行なっていた。
また、将来、酪農の必要性を考えた祖父は、自費で宇野より乳牛を仕入、浦田の駅の前に牛乳とバター工場を建てた。人造バターではなく本物志向を消費者が求めて来ると考え、真生バターにこだわった。初めは協力企業が森永であったが、途中より明治乳業に変わっている。母が大きく成るまであったという。長浜(浦上病院の下)では自殺者や切腹する者が多かったので、見張り番をおいていた。だが、夜は恐いので誰もいなくなるので、宮市自身が夜には見張りについていた。行き倒れが多かったので、それを聞くと「握り飯」を持たせて走らせた。
又、柳川より、あさり貝を3隻の船に積み込み、干満の差が特に大きい北岡の浜で養殖し缶詰工場を建てようとしたが、昼間は見張り番で防げるが、月夜の晩に掘られることに気づかなく取られてしまった。生前、父に「こんなに多く事業をしてきて失敗したことはないのか。」と聞いたとき、唯一の失敗として話してくれたと母は言った。
原城の松などの木々の剪定や除草作業のため庭師や作業員を5〜6人雇って定期的に自費で行っていた。斡旋所は大江や吉川駅の前にあったらしい。また、原城の蘇鉄が耐えないように株分けして有家の寺、深江、島原など島原半島の至る所に植えている。全部枯れたので、今の原城の蘇鉄は株分けておいたものです。▼ 多くの親からの相談を受け、若者が定職持って長く働くようにと、有家の野原金物店より「縄編み機」を数台購入して製造するようにした。縄は売れに売れたので、喜ばれて機械を追加購入している。
母が、有家に嫁いで、「有家ではサツマイモをはちりと呼ばれており、栗より1里少なく,栗よりおいしくないから。」と話すと、祖父は「戦時中、命を繋いだ作物である。そのように言うものではない。」と諭されたらしいです。初代「市衛門」の命日と祖父の生誕月日が同じなので、生まれ変わりと信じて精進し、原城跡を常に気にとめ、周りの人の為にと尽力した生涯であっ
●仲買人が買い付けに来た時、チキリの先の荷を突き刺す金具の先で、玉子を突っつき、穴より2〜3個すすってから商談に入った。傷ついた玉子も多くお菓子屋さんが引き取った。あれだけ玉子を食べてきたのに母は飽きていない。 |
◆ 交友関係(本多大臣・尾崎萼堂大臣) ◆ |
◎父(宮市)の交友関係
本多一郎 氏(第50代 第3次吉田茂内閣の行政管理長官)
北岡の干拓
本多氏は、外遊したとき、ラクダに並んで乗っている写真を持ってきた。
もう一人は、尾崎萼堂氏(尾崎行雄、1857年、安政5年生まれ、福沢諭吉や大隈重信との出会い、文部大臣、東京市長、司法大臣、天皇陛下の相談役とも言われ東京都名誉都民第1号、97歳にて永眠)であった。 |
◆ 思い出の母 ◆ |
明治21年生まれの母は、龍石の本多家より嫁いできた。西有家尋常小学校を卒業しており、残っている卒業証書に校長が内藤政策氏とあるので、兼ねていたと思われる。 |
◆ 放浪木牧人の思い出 ◆ |
◆吉川駅におり、線路を口之津方向に歩く。踏切を右折すると、大きな堤が左に来る。登って行くと、右に家が見え、さらに登ると堤か池が右にある。そこから先は、60度くらいの坂で、竹の根っこが至る所に出ているので、それらをつかんで登る。湿っていればよく滑った。
左が牛舎で、真中に風呂と便所の棟、右が母屋だった。母屋の裏は竹林に成っており、崖を下る前に、皮の薄い平戸ボンタンの木があった。たわわに実っており、美味しくてたくさん食べた記憶がある。 |